第3351冊目 プロフェッショナルの条件――いかに成果をあげ、成長するか P・F. ドラッカー (著), Peter F. Drucker (原著), 上田 惇生 (翻訳)



私は、成果をあげる人間のタイプなどというものは存在しないことをかなり前に気づいた。私が知っている成果をあげる人たちは、その気性や能力、仕事や仕事の方法、性格や知識や関心において千差万別だった。共通点は、なすべきことをなし遂げる能力をもっていたことだけだった。


外交的な人もいれば、超然とした内向的な人、なかには病的なほどに恥ずかしがり屋の人もいた。過激な人もいたし、痛ましいほど順応的な人もいた。太った人もやせた人もいた。心配性の人も、気楽な人もいた。酒飲みも、酒嫌いもいた。魅力的な人も、冷凍した鯖のように冷たい人もいた。


通俗的なリーダー像どおりの、目立つ人たちがいた。逆にその存在も気づかれないような、何の特色もない人がいた。学者肌の人もいれば、ほとんど文字を読めない人もいた。幅広い関心をもつ人もいたし、逆に、狭い領域以外のことに関心をもたない人もいた。利口的ではないにしても、かなり自己中心的な人もいた。心の広い人もいた。仕事にい来ている人もいれば、地域社会や教会の仕事、漢詩の研究、あるいは現代音楽など、仕事以外のことに大きな関心をもつ人もいた。



私が会った成果をあげる人たちの中には、論理や分析力を使う人もいれば、知覚や直感に頼る人もいた。簡単に意思決定をする人もいれば、何かをするたびに悩む人もいた。つまり、成果をあげる人もまた、医者や高校の教師やバイオリニストと同じように千差万別である。彼らは、成果をあげられない人と同じように千差万別である。しかも成果をあげる人は、タイプや個性や才能の面では、成果あげない人とまったく区別がつかない。


成果をあげる人に共通しているのは、自らの能力や存在を成果に結びつけるうえで必要とされる習慣的な力である。企業や政府機関で働いていようと、病院の理事長や大学の学長であろうと、まったく同じである。私の知るかぎり、知能や勤勉さ、想像力や知識がいかに優れていようと、そのような習慣的な力に欠ける人は成果をあげることができなかった。


言いかえるならば、成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。そして習慣的な能力は、常に修得に努めることが必要である。習慣的な能力は単純である。あきれるほどに単純である。七歳の子供でも理解できる。掛け算の九九を習ったときのように、練習による修得が必要となるだけである。「六、六、三六」が、何も考えずに言える条件反射として身につかなければならない。習慣になるまで、いやになるほど反復しなければならない。