第2854冊目 私の財産告白 本多 静六 (著)


人生と財産―私の財産告白

人生と財産―私の財産告白

  • 自惚れもまた不可ならず


人にはだれにも自惚れがある。


おれにはそんなものはないぞということすらが、すでに一種の自惚れであるほどだ。多かれ少なかれ、またこの自惚れがあるために、人は職業人として立ってもいけるし、何かしら仕事もやっていけるし、一人前の世渡りもできていけるわけである。いわゆるウソから出たマコトで、事実また、この自惚れから思わぬ成功が生まれてくることも多いのである。


なかんずく、学者、芸術家といった人々にはことに自惚れが強い。これは、こうした職業者の一種の通有性ともいうべきもので、自惚れが自信となり、自信が精進となることによって、かえって偉大な業績を残す場合が少なくない。しかし、実際には自惚れで成功するよりも、自惚れで失敗するもののほうがはるかに多く、ことにわれわれ平凡人がちょっと何かでウマくいった際、無意識の中にきざす自惚れには、その危険率が多い。


そこで私の体験社会学によれば、自惚れはだれにもあり、まただれにでもそれ相応もたなければならぬとなると、自惚れの「大出し」はいつも禁物。人に目立たぬよう、人に笑われぬよう、人にそしられぬよう、ジワジワと「小出し」にするに限るようである。要するに自惚れの発展対象は、卑近なところ、着実なもののみにして、小となく、大となく、高きも、低きも、その目的を達成するまでは、自惚れを心ひそかに持続して専心努力すべきであると考える。コツコツ努力をつづける間に、自然に自己の力と性格がわかってきて、自惚れが本当の自信になり、実力となって、一段一段と高い目的にすすみ、知らず識らずのうちに本当の手腕、力量、人格といったものが構成せられてくる。しかもそれらの上に再出発して、自分も成功し、世の中にも大いに貢献することができるのである。


自惚れといっても、世俗な解釈をもって、一途に馬鹿にしてしまってはいけない。自惚れがなくなってしまっては、人間ももお仕舞いである。自惚れの拍車は各人を自ら想像したよりも幾倍に大きくし、大きくなった自己は、さらに偉大なる未知の発展力を生むものである。このことは、世上幾多の事例がわれわれにハッキリ教えている。


自惚れは決して天才者のみの専有物ではない。平凡人も平凡人としてこの自惚れをぜひもたなければならない。ただここに注意しなければならぬことは、あくまでも「柄相応」ということで、それには正しい自己反省を常に忘れてはならないのだ。