第2638冊目 プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか P・F. ドラッカー (著), Peter F. Drucker (原著), 上田 惇生 (翻訳)


  • 勇気をもつ


これでいよいよ、決定を行う準備と整った。すなわち、決定が満たすべき必要条件は十分に検討し、選択肢はすべて検討し、得るべきものと付随する犠牲とリスクは、すべて天秤にかけた。すべては分かった。ここにおいて、何を行うべきは明らかである。決定はほぼ完了した。しかし、まさに決定の多くが行方不明になるが、このときである。決定が、愉快ではなく、評判もよくなく、容易でないことが急に明らかになる。


とうとうここで、決定には判断を同じくらい勇気が必要であることが明らかになる。薬は苦くなければならないという必然性はない。しかし一般的に、良薬は苦い。決定が苦くなければならないという必然性はない。しかし一般的に、成果をあげる決定は苦い。


ここで絶対にしてはならないことがある。「もう一度調べよう」という誘惑に負けてはならない。臆病者の手であれう。臆病者は、勇者が一度死ぬところを、一〇〇〇回死ぬ。「もう一度調べよう」という誘惑に対しては、「もう一度調べれば、何か新しいことが出てくると信ずべき理由はあるか」を問わなければならない。もし答えがノーであれば、再度調べようとしてはならない。自らの決断力のなさのために、有能な人たちの時間を無駄にするべきではない。


とはいえ、決定の意味について完全に理解しているという確信なしに、決定を急いではならない。相応の経験をもつ大人として、ソクラテスが神霊と呼んだもの、すなわち「気をつけよ」とささやく内なる声に、耳を傾けなければならない。意思決定の正しさを信ずるかぎり、困難や不快や恐怖があっても、決定しなければならない。しかしほんの一瞬であっても、理由はわからずとも、心配や不安が気がかりがあるならば、しばらく決定を待つべきである。私のよく知っている最高の意思決定者のひとりは、「焦点がずえているようなときには、ちょっと待つことにしている」と言っている。


一〇回のうち九回は、不安に感じていたことが杞憂であることが明らかになる。しかし、一〇回に一回は、重要な事実を見落としたり、初歩的な間違いをしたり、まったく判断を間違っていたりしたことに気づく。一〇回に一回は、突然夜中に目が覚め、シャーロック・ホームズのように、重要なことは、「バスカヴィル家の犬が吠えなかった」ことだと気づく。


とはいっても、決定を延ばしすぎてはならない。数日、せいぜい数週間前までである。それまでに神霊が話しかけてこなければ、好き嫌いにかかわらず、精力的かつ迅速に決定をしなければならない。人は、好きなことをするために報酬を手にしているのではない。なずべきことをなすために、成果をあげる意思決定をするために報酬を手にしている。


今日意思決定は、少数のトップだけが行うべきものではない。組織に働くほとんどのあらゆる知識労働者が、なんらかの方法で、自ら決定し、あるいは少なくとも、意思決定のプロセスにおいて積極的な役割を果たさなければならなくなっている。


かつては、トップマネジメントというきわめて小さな機関に特有の機能だったものが、今日の社会的機関、すなわち大規模な知識組織においては、急速に、あらゆる人の、あらゆる組織単位の、日常とまではいかなくとも通常の仕事となりつつある。今日では、意思決定をする能力は、知識労働者にとっても、まさに成果をあげる能力そのものである。