第2628冊目 プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか P・F. ドラッカー (著), Peter F. Drucker (原著), 上田 惇生 (翻訳)


  • 自分の時間をどのように使っているか


通常、仕事に関する助言というと、計画することから始めなさい、とうものが多い。まことにもってもらしい。だが問題は、それではうまくいかないことにある。計画は紙の上には残っているが、やるつもりのままで終わる。実際に行われることは稀である。


私の観察によれば、成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。次に、時間を管理すべく、自分の時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという三つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。


成果をあげる者は、時間が制約要因であることを知っている。あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。時間は、借りたり、雇ったり、買ったりすることはできない。その供給は硬直的である。需要が大きくとも、供給は増加したりしない。価格もない。限界効用曲線もない。簡単に消滅する。蓄積もできない。永久に過ぎ去り、決して戻らない。したがって、時間は常に不足する。時間は他のもので代替できない。ほかの資源ならば、限界はあっても、代替することはできる。アルミの代わりに銅で代替できる。労働の代わりに資本で代替し、肉体の代わりに知識で代替できる。時間には、その代わりになるものがない。


時間はあらゆることに必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。あらゆる仕事が時間の中で行われ、時間を費やす。しかるに、ほとんどの人が、この代替できない必要不可欠な資源を当たり前のように扱う。おそらく、時間に対する愛情ある配慮ほど、成果をあげている人を際立たせるものはない。しかし一般に、人は時間を管理する用意ができていない。


空間感覚は、闇でも保てる。だがたとえ電気の明かりがあっても、何時間も密閉された部屋に置かれると、ほとんどの人が時間感覚を失う。経過した時間を過大評価したり、過小に評価したりする。


われわれは、どのように時間を過ごしたかを、記憶に頼って知ることはできない。


ときどき、自分が時間をどのように使っていると思うかを記憶自慢の人にメモしてもらい、そのメモを何週間か何ヶ月かしまっておいてもらう。その間、実際の時間を記録をとらせる。彼らが思っていた時間の使い方と実際の記録は似ていたためしがない。


ある会社の会長は、時間を大きく三つに分けていると自分では思っていた。三分の一は幹部との時間、あとの三分の一は大切な客との時間、残りの三分の一は地域活動のための時間だった。六週間にわたって記録をつけてもらったところ、これら三つの活動のいずれに対しても、ほとんど時間を使っていないことがわかった。それらは、割くべきであると考えられていた時間にすぎなかった。例によって都合のよい記憶なるものが、実際にそれらの仕事に時間を使っているように思い込ませていたのだ。たとえばこの人は、かなりの時間を、友人の顧客からの注文に早く応えるよう工場に催促の電話をすることに使っていた。しかも、注文はいつも円滑に処理されており、彼の干渉はむしろ注文を遅らせる原因になっていた。


秘書が時間の記録を示しても、社長は信じなかった。記録よりも記憶のほうが正しいことを納得させるために、二回、三回と、さらに時間の記録を取らなければならなかった。


時間を管理するには、まずは自らの時間をどのように使っているかを知らなければならない。