第1318冊目 采配 [単行本(ソフトカバー)] 落合博満 (著)


采配

采配


自己成長に数値目標は無意味


毎年2月の春季キャンプでは、全体練習を終えた後、サブグランドで行われる私のノックが話題になった。1、2時間は当たり前。選手と私のどちらが先にギブアップするか、我慢比べのような時間であった。


これは、決して強制的な練習ではない。ノックを受けたいと思った選手がコーチに申告し、私がノッカーに指名される。指名するのではなく、指名されるのだ。


だから、ノックの本数や時間もこちらからは指示しない。ただ、「これ以上続けたら体が壊れてしまうと感じたら、グラブを外してグランドに億」ということだけ約束していた。


ドラゴンズがキャンプを実施している沖縄県中部の北谷町は、2月でもうっすらと汗をかくくらい暖かい。寒がりの私は厚手のグランドコートを着てノックするため、選手はグランドコートを脱ぐまではやめないと決めていたようだ。ところが、私も必要以上に体力を使わずにノックすることができるから、いつまで経ってもグランドコートを脱がない。


「監督のグランドコートを脱がすのは無理かな」


そう感じた選手は、何を終わりの合図にしようか考える。時間にするか、本数にするか。自分の体と相談しながら、選手たちは考え、動き、決めていく。


同じように、居残りの打撃練習にも「何時まで」というリミットを設けていない。


こちらで「○時までな」と時間を決めてしまうと、どうしても「その時間をやり過ごそう」という感覚が生まれてくる。


だが、監督やコーチが時間制限を設けなければ、選手は自分が納得するまでやり遂げる。


こういう気持ちで練習に取り組むことが、自己成長を促し「自分の野球人生に自分で責任を持つ」という考え方を育んでいく。


三番を任せた森野将彦は、まさにこのプロセスで台頭してきた。


私が監督に就任した時、すでに8年目の中堅クラスだったが、通算出場254試合と一軍にも定着できていなかった。攻守に素晴らしいセンスを備えていたが、それをどう使いこなすかも、どうやって磨けばいいのかも理解していなかった。


だが、バッティング練習にしろ、守備練習にしろ、「終わる時間は自分で決めなさい」という形で練習すると、いつでも最後までグランドにいた。


先に書いたノックでも、私が「もう限界なんじゃないか」と感じているのにグラブを外さず、突然バタッと倒れて「寒い」と言うものだから、これは命に関わると救急車を呼ぼうとしたことまである。幸い大事には至らず、「なぜ倒れるまでグラブを外さなかったんだ」と聞くと、「外したかったけれど外れませんでした」という答え。今では笑い話になっているが、そうやって自分の限界を知りながら、その手前まで追い込んで自分を成長させ、ポジションを奪い取った。


今の森野は、アマチュア球界のスターだからと競争もせずにレギュラーを与えられた選手に比べれば、芯の強さや太さを備えている。


かくいく私自身、「その他大勢」の中から、自分で考えながらのし上がっていった選手だったと思っている。そして、誰に言われたわけでもなく、自分で責任を持って過ごした現役生活にわずかな後悔のないからこそ、コーチには繰り返しこう言っている。


「自分から練習に打ち込んでいる間は、オーバーワークだと感じても絶対にストップをかけるな」


極論すれば、その時のオーバーワークが引き金となって選手が潰れてしまってもいいと考えている。


「これ以上練習させたら壊れてしまう」と指導者が気を遣っても、一軍で活躍することができなければ、結果として壊れたのと一緒だろう。


指導者は、選手に対して絶対に気を遣ってはいけない。その代わり、全身全霊で練習に打ち込む選手に配慮してやることが必要なのだ。そこで、私はコーチにもひとつ声をかけている。


「どんなに遅くなっても、練習している選手より先に帰るなよ。最後まで選手を見ていてやれよ」


2011年のシーズン前半、ドラゴンズは上位打線を任せている主力選手が揃って不振に喘ぎ、思うように得点できない試合が続いた。しかし、それでも下位に沈まなかったのは、投手陣が踏ん張ってくれたこと、若い野手がそれをチャンスと感じて結果を残したからだ。


厳しい競争は自然にチームを活性化させる。だからこそ、選手たちが自己成長できるような環境を整え、そのプロセスをしっかり見ていることが指導者の役割なのだと思う。