第1007冊目  私の財産告白 [単行本]本多 静六 (著)

私の財産告白

私の財産告白

仕事の面白味


職業を道楽化する方法はただ一つ、勉強に存する。努力また努力のほかはない。

あらゆる職業はあらゆる芸術と等しく、初めの間こそ多少の苦しみを経なければならないが、何人も自己の職業、自己の志向を、天職と確信して、迷わず、疑わず、一意専心努力するにおいては、早晩必ずその仕事に面白味が生まれてくるものである。一度その仕事に面白味を生ずることになれば、もはやその仕事は苦痛ではなく、負担でなはない。歓喜であり、力行であり、立派な職業の道楽化に変わってくる。

実際、商人でも、会社員でも、百姓でも、労務者でも、学者でも、学生でも、少しその仕事に打ち込んで勉強しつづけさえすれば、必ずそこに趣味を生じ、熱意を生み、職業の道楽化を実現することができる。それは私の今日まで体験してきたところでも全く明らかである。

私は埼玉の百姓生まれで、米を搗きながら独学して、東大農学部の前々身であり山林学校に入学したのであるが、その米搗きも初めのうちは苦しく、いやでいやで仕様がなかった。ちょっと踏み台を踏んだばかりで、もうどれくらい搗けたかなと、下へ降りて米を吹き吹きしていたので、せっかく摩擦熱が冷めますます手間取ってしまった。そこでだんだん考えた末、かたわらの戸の桟の上にゆるく糸を張り、その間に本を広げて読むことにした。仕事は足を踏むだけの単調なものであるから、もう少し少しと本につられているうち、米のほうは搗き過ぎるくらい白く搗いてしまうようになった。ついて「米搗きは静六に限る」ということになって、米搗きが私の専門になり、おかげで勉強のほうもぐんぐん進んだ。

米搗きのような、機械的なツマラヌ仕事でも、少し工夫をすれば面白くつづけることができる。これが、私が最初に発見した職業道楽化、もしくは遊戯化の実例であった。もっとも仕舞いには、いささか、頭の働きと足の働きが主客てんとうの形になってしまうこともあるにはあったが。――桂大将は明治兵制の創設に当たって、最初から大尉に任官したのだったから、その必要もなかったであろうが、軍人としても、やはり兵、下士官のコメツキ仕事から、次への段階のために工夫をこらし、最善を尽くしてゆけば、その到達し得る最高まで必ず到達し得たにちがいない。まして軍人まどよりさらに自由性があり、階級性の乏しい他業に従う人々には、この職業の道楽化がより可能であり、そのもらたすものがより大であることはいうまでもない。