第684冊目 走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹/著

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

職業作家にとって必要な筋力
Download


優れたミステリー作家であるレイモンド・チャンドラーは「たとえ何も書くことがなかったとしても、私は1日に何時間かは必ず机の前に座って、1人で意識を集中することにしている」というようなことをある私信の中で述べていたが、彼がどういうつもりでそんなことをしたのか、僕にはよく理解できる。


チャンドラー氏はそうすることによって、職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに志気を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとって不可欠なことだったのだろう。


長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし1冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。


コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうんだろうと。しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように1点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生みだし、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける――そのような作業は、一般的に考えられているよりも遙かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。


身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのだ。もちろんものを考えるのは頭(マインド)だ。しかし小説家は「物語」というアウトフィットを身にまとって全身で思考するイズ、その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することを――多くの場合酷使することを――求めてくる。


あなたに、すべての良きことが、なだれのごとく起きますように♪


目次


第1章 2005年8月5日ハワイ州カウアイ島―誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?
第2章 2005年8月14日ハワイ州カウアイ島―人はどのようにして走る小説家になるのか
第3章 2005年9月1日ハワイ州カウアイ島―真夏のアテネで最初の42キロを走る
第4章 2005年9月19日東京―僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた
第5章 2005年10月3日マサチューセッツ州ケンブリッジ―もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても
第6章 1996年6月23日北海道サロマ潮―もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった
第7章 2005年10月30日マサチューセッツ州ケンブリッジ―ニューヨークの秋
第8章 2006年8月26日神奈川県の海岸にある町で―死ぬまで18歳
第9章 2006年10月1日新潟県村上市―少なくとも最後まで歩かなかった
後書き 世界中の路上で


今日の声に出したい言葉


「プレッシャーは、その人の器に合わせて掛かるものなんです。たとえば、高跳びで仮に1メートル50センチのバーを跳べる人がいたとします。どういう場面 でプレッシャーが掛かり、逆に掛からないかといえば、バーが1メートルならプレッシャーは掛からないんですよ。跳べるに決まっていますから。2メートルで も掛かりません。跳べるわけがないので。バーが1メートル55センチとか60センチの時に、プレッシャーは掛かってきます。つまり、どうしたってムリな場 合は掛からない。掛かる時は、そこそこいいところまで来ている。あともう一歩でブレークスルーがあるんです。だから、もしプレッシャーを感じたら、自分は もう8合目まで来ていると思っていればいいんですよ。まあ、最後の一歩が大変といえば大変なんですが(笑)、8合目まで来て引き返してはいけません。遅か れ早かれ達成するはずです。時間の問題と思えば、気楽にできます」――羽生善治


 

編集後記


なぜ村上春樹さんが小説家なのに、走り続けているのか、わかったような気がします。


走ることは小説家にとって関係のないことのように思えることを、小説家だからこそ走ることが必要なのだと。


健康な身体があって、はじめて小説という不健康なものを扱うことができる。


アインシュタインにとってバイオリンが研究と補完しあったように、村上春樹さんにとって小説とマラソンは切っても切り離せないものなのです。


さよなら、愛しい人

さよなら、愛しい人

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)