第677冊目 走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹/著

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

小説家にとって重要な資質
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才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、一日に三時間か四時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。思うのだが、たとえ豊かな際のがあってとしても、いくら頭の中に小説的アイデアが充ち満ちていたとしても、もし(たとえば)虫歯がひどく痛み続けていたら、その作家はたぶん何も書けないのではないか。集中力が、激しい痛みによって阻害されるからだ。集中力がなければ何も達成できないというのは、そういう意味合いにおいてである。


集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいまいしたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して持続できる力は、小説家には――少なくとも長編小説を書くことを志す作家には――求められる。呼吸法にたてえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。その両方の呼吸のバランスがとれていないと、長年にわたってプロとして小説を書き続けることはむずかしい。呼吸を止めつつ、呼吸を続けること。


このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合と違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の訓練作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわすかずつ、その目盛りをこっそりと稼働させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとして体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある。


あなたに、すべての良きことが、なだれのごとく起きますように♪


目次


前書き 選択事項としての苦しみ
第1章 2005年8月5日ハワイ州カウアイ島―誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?
第2章 2005年8月14日ハワイ州カウアイ島―人はどのようにして走る小説家になるのか
第3章 2005年9月1日ハワイ州カウアイ島―真夏のアテネで最初の42キロを走る
第4章 2005年9月19日東京―僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた
第5章 2005年10月3日マサチューセッツ州ケンブリッジ―もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても
第6章 1996年6月23日北海道サロマ潮―もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった
第7章 2005年10月30日マサチューセッツ州ケンブリッジ―ニューヨークの秋
第8章 2006年8月26日神奈川県の海岸にある町で―死ぬまで18歳
第9章 2006年10月1日新潟県村上市―少なくとも最後まで歩かなかった
後書き 世界中の路上で


今日の声に出したい言葉


私の知るかぎりでも、「決断」は、ほとんどの場合、遅らせれば遅らせるほど事態を悪化させるものです。――荘司雅彦


 

編集後記

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