第2850冊目 私の財産告白 本多 静六 (著)


人生と財産―私の財産告白

人生と財産―私の財産告白

  • 仕事の面白味


職業を道楽化する方法はただ一つ、勉強に存する。努力また努力のほかにない。


あらゆる職業はあらゆる芸術と等しく、初めの間こそ多少苦しみを経なければならぬが、何人も自己の職業、自己の志向を、天職と確信して、迷わず、疑わず、一意専心努力するにおいては、早晩必ずその仕事に面白味が生まれてくるはずである。一度その仕事に面白味を生ずることになれば、もはやその仕事は苦痛でなく、負担ではない。歓喜であり、力行であり、立派な職業の道楽化に変わってくる。


実際、商人でも、会社員でも、百姓でも、労務者でも、学者でも、学生でも、少しその仕事に打ち込んで勉強しつづけさえすれば、必ずそこに趣味を生じ、熱意を生み、職業の道楽化を実現することができる。それは私の今日まで体験してきたところでも全く明らかである。


私は埼玉の百姓生まれで、米をつきながら独学して、東大農学部の前々身である山林学校に入学したのであるが、その米つきも初めのうちは苦しく、いやでいやで仕様がなかった。ちょっと踏み台を踏んだばかりで、もうどれくらいつけたかなと、下へ降りて米を吹き吹きしていたので、せっかくの摩擦熱が冷めますます手間取ってしまった。そこでだんだん考えた末、かたらわの戸の桟の上にゆるく糸を張り、その間に本を広げて読むことにした。仕事は足を踏むだけの単調なものであるから、もう少し少しと本につられてくるうち、米のほうはつき過ぎるくらい白いついてしまうようになった。ついに「米つきは静六に限る」ということになって、米つきが私の専門になり、おかげで勉強のほうもぐんぐん進んだ。


米つきのような、機械的でツマラヌ仕事でも、少し工夫をすれば面白くつづけることができる。これが、私の最初に発見した職業道楽化、もしくは遊戯化の実例であった。もっとも仕舞いには、いささか、頭の働きと足の働きが主客てんとうのかたちになってしまうこともあるにはあったが。――桂大将は明治兵制の創設に当たって、最初から大尉に任官したのであったから、その必要もなかったであろうが、軍人としても、やはり兵、下士官のコメツキ仕事から、次への段階のために工夫をこらし、最善を尽くしてゆけば、その到達し得る最高まで必ず到達し得たにちがいない。まして軍人などよりさらに自由性があり、段級性の乏しい他業に従う人々には、この職業の道楽化がより可能であり、そのもたらすものがより大であることはいうまでもない。