第2622冊目 プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか P・F. ドラッカー (著), Peter F. Drucker (原著), 上田 惇生 (翻訳)


  • 何によって知られたいか――シュンベーターの教訓


最後にもう一つ経験がある。これで自己啓発についての私の話は終わりである。ちょうど、ニューヨーク大学でマネジメントを教えるようになった一九四九年のクリスマスに、七五歳になっていた父アドルフが、数年前の退職以来住んでいたカリフォルニアから東海岸へ知り合いに会いにきた。


一九五〇年の一月三日、父と私は、父のむかしからの友人であるあの有名な経済学者シュンベーターを訪問した。当時六六歳ですでに世界的に有名になっていたシュンベーターは、ハーバード大学で教え、アメリカ経済学界の会長として活躍していた。


オーストラリア大蔵省の官僚だった父は、大学で経済学を教えていた。一九〇二年、父は一九歳の秀才シュンベーターと出会った。二人にはまったく似たところがなかった。シュンベーターは雄弁で、行動家、自信家だった。父は静かで落ち着いた謙虚家だった。二人の友情はずっと続いていた。すでにシュンベーターは名をなしていた。ハーバードでの最後の年を迎えていた。その名は絶頂期にあった。


二人はむかし話を楽しんだ。いずれもウィーン生まれで、ウィーンで仕事をしていた。二人ともアメリカに移住してきた。シュンベーターは一九三二年に父はその四年後に移住した。突然、父ににこにこしながら、「ジョセフ、自分が何によって知られたいか、今でも考えることはあるかね」と聞いた。シュンベーターは大きな声で笑った。私も笑った。というのは、シュンーペーターは、あの二冊の経済学の傑作を書いた三〇歳ごろ、「ヨーロッパ一の美人を愛人にし、ヨーロッパ一の馬術家として、そしておらくは、世界一の経済学者として知られたい」と言ったことで有名だったからである。


彼は答えた。「その質問は今でも、私には大切だ。でも、むかしとは考えが変わった。今は一人でも多くの優秀な学生を一流の経済学者に育てた教師として知られたいと思っている」。おそらく彼は、そのとき父の顔に浮かんだ怪訝な表情を見たに違いない。というのは、「アドフル、私も本も理論で名を残すだけでは満足できない歳になった。人を変えることができなかったら、何にも変えたことにはならないから」と続けたからである。


彼は、その五日後に亡くなった。父が訪ねていったのも、シュンペーターの病気が重いことを聞き、あまり長くないと思ったからだった。私は、今でもこの会話を忘れることができない。私は、この会話から三つのことを学んだ。


一つは、人は、何によって人に知られたいかを自問しなければならないということである。二つめは、その問いに対する答えは、歳をとるにつれて変わっていかなければならないということである。成長に伴って、変わっていかなければならないのである。三つめは、本当に知られるに値することは、人を素晴らしい人に変えることであるということである。