第3382 冊 プロフェッショナルの条件――いかに成果をあげ、成長するか P・F. ドラッカー (著), Peter F. Drucker (原著), 上田 惇生 (翻訳)

 

 

 

 

-決定は本当に必要か

 

 

最後に、「意思決定は本当に必要か」を自問しなければならない。何も決定を行わないという代替案は、常に存在する。意思決定は外科手術である。システムに対する干渉であり、ショックを与えるリスクを伴う。よい外科医が不要な手術を行わないように、不要な決定を行ってはならない。

 

 

優れた決定を行う人も、優秀な外科医と同じように、それぞれスタイルは違う。ある人は大胆であり、ある人は保守的である。しかし、不要な決定は行わないという原則では一致している。何もしなければ事態が悪化するようであれ、決定を行わなければならない。同じことは、機会についてもいえる。急いで何かをしなければ重要な機会が消滅するのであれば、思い切った変革に着手しなければならない。

 

 

楽観的というわけではなく、何もしなくても問題は起こらないという状況がある。「何もしないと何が起こるか」という問いに対して、「何も起こらない」が答えであるならば、手をつけてはならない。状況は気になるが、切実ではなく、さしたる問題が起こりそうもないというときは、問題に手をつけてはならない。

 

 

このことを理解している人は稀である。たとえば、深刻な財務の悪化の中で合理化の先頭に立つ役員は、さして意味のないことでも放っておくことができない。合理化の対象は、営業あるいは物流である。そこで懸命かつ賢明に、営業部門と物流部門におけるコスト削減を成功させる。しかし、効率的にうまく運営されている工場で、二、三人の歳とった工員が不必要に雇われていると指摘し、せっかくの合理化努力の成果や自分自身の評判を台無しにしてしまう。二、三歳とった工員を解雇しても、たいした合理化効果はないという意見を、筋を通らないとして退ける。「みなが犠牲を払っているのに、工場だけが非効率でよいのか」という。

 

 

やがて危機が去ると、事業を救ったことは忘れられてしまう。しかし、歳とった二、三人のかわいそうな工員に無慈悲だったことは、決して忘れられることはない。当然である。すでに二〇〇年も前に、ローマ法は、為政者は些事に執着するべからずといっている。このことを学ぶべき意思決定者は、まだ多い。